フォトアルバム
Powered by Six Apart

最近のトラックバック

 

14歳:もの言う背中

 

14_6 これからの日本映画界を背負って立つに違いない、立ってもらわないと困る、人たちが、映像ユニット<群青いろ>だ。映画界のこれからといえば、他にも数人はうかぶけれど、彼らはどこか違う世界を浮遊しているように見える。今回の『14歳』は脚本を高橋泉が手がけ、主演と監督は廣末哲万が手がける。それぞれに役者も出来、本を書き、監督業もする。2人は強力なタッグを組み、その時々でその役割を変える。今年度のフィルメックスで発表された群青いろの作品『むすんでひらいて』では、高橋さんが監督をしていた。これがまたなかなかに色濃くて苦しくなる映画で、これもいつかうちで上映したい。
 さて、今回のこの作品は、今の14歳をクローズアップしていくのだけれど、実は、彼らに対応するかつての14歳=いわゆる大人たち の身ぐるみはがしていくような、そんな物語でもある。思春期の危うさや、孤独感、不安を抱える中学生たちは、それでもどうにか年を重ねて大人になる。誰もがそうやって進んで来て大人になるわけだけれど、大人と言われる人種は、消化出来ない14歳の自分がどこかにいることに気がつかない。しかしどこかで、その消化出来ない事をどうしようもないこととして何かの理由にしてしまう。その弱さと、向き合わなさを執拗に暴いていく。
 その暴かれる一人、教師役の香川照之さんの演技は絶品だ。今の邦画界でこの役者を使いたいと熱望する監督は今や一番多いのではないかと思う彼が、この若手の作品の出演を快諾した事もすごいし、当たり前だけどこの難しい役はなかなか出来る人もいないのだろう。正面切ったショットよりも斜めや背中で捉えられる香川さんにこそ、この役柄のすべてが注ぎ込まれている。高圧的で生徒を指導する立場の教師・小林、真正面から見据える彼はにこりともせず、全てが正しいかのような威嚇をする。しかしながら、風をきるかのように肩を揺らしながら歩く背中は、首をすぼめ背を丸め、体の重心は定まらずに揺れている。足早に去る後ろ姿に、恐れと不確定な自分への不安がすべて取り込まれている。ああこの人も、怖いのだと一瞬にして思わせる。
 恐るべし、香川照之である。
 怖さと不安は閉塞感という言葉に換えられる。学校という箱の中で捉えられる事でそれはみるみると形を現す。26歳の杉野と深津は14歳の中学生たちと向き合う事で改めて自分たちの中の消化しきれないものを見つけ出していくが、それすらもすでに出来なくなってしまった大人たちの存在がある。小林という教師像がそのなんたるかを象徴しているようだった。背中は物事を語るのだ。悲しい程に。
 向き合う事の怖さは、画面という外の世界に背を向けることで現れ、また、登場人物は画面に対して背を向けながら、自分たちの前に立ちはだかる道を眺める。その背中にさまざまな意味合いを感じずにはいられなかった。
 辛辣なまでの人間描写に苦しくなるかもしれない。けれど、その後に息を吹き返せるだけの希望も込められている。
 「自主制作でいい。自分たちの撮りたい物を撮り続ける。」そう言い切った群青いろから私は絶対目を離さないでいたい。14_4

呉清源ー極みの棋譜ー:極

 

Goseigen 絶対音感をもっている人は日常の生活で出る音全てが音階をもってしまうので、音の合わせが悪いと気持ち悪くなってしまう、なんて話を聞いた事のある人は多いのではないでしょうか。それと同じように、囲碁の天才はすべてが碁盤に見えてしまうんだという話を聞いた事があります。人が歩いていたり、並んでいたりのその配置で碁石を浮かべてしまうのだそうです。自分の生活自体が才能と一体化して切り離してはいられない、という天才の性。人より優れた才能を持ち得るという事は、人より少し生きにくいという局面もあるのかもしれません。
 この物語は、中国で生まれた呉清源さんの半生を綴ったものです。今もなお健在の昭和の棋聖についてを物語るのは『青い凧』、『春の惑い』のティエン・チュアンチュアン監督。そしてそして、孤高の天才棋士を演じるのが、チャン・チェン。傑作中の傑作、エドワード・ヤン監督の『クーリンチェ少年殺人事件』の主人公を演じたあの青年です。素晴らしい表現力はもちろんのこと、とにかく天性の美しさが画面に際立って現れます。
 14歳で日本へ渡り、戦後の混乱期から生涯を異国の地で生抜いている呉清源とはどんな人物であり、どのように生きて来たのか。天賦の才能とそれゆえの苦悩、悲しみ、孤独、それがティエン監督が作り出す画面に否応なく現れ、そこに佇む一人の人間の厳かで静かなただづまいには息を飲みます。
 極める事への畏敬の念を持ってこの映画を見つめてしまいました。
是非ご覧ください。

アフター・ウェディング:必要な孤独

 

Pic_4_1_2006_8_39_06316 好調な出足を切った『いのちの食べかた』の後ろでひっそりと始まった(単なるイメージですが…)『アフターウェディング』。いい作品だけに、地味さが先行してうまくお客様に浸透しなかったらもったいないと心配していましたが、お客様の反応は上場で少しほっとしています。個人的にはとても好きな作品です。
 デンマーク出身のスサンネ・ビアは、2002年に発表したドグマ作品『しあわせな孤独』で一躍世界的にも脚光を浴びることになりました。かねてより本国ではその才能は高く評価されていて徐々に本国から世界へとフィールドを広げ、昨年はついにドリームワークスで新作も製作され、日本でも今後公開されるだろう大活躍が期待される女流作家のお一人です。
 彼女が描くのは、人間そのもの。ささやかな生活を静かに営んでいても、自分の力ではどうにもならない、<他の力>によってそれまで平穏だった日常がいつ何時がらりと変わるかわからない。人はそういうとてつもなく大きなゆらぎの中で、生きています。忍び寄る悲しい運命は、受けた自分も大きなダメージを受けるけれど、人が生きるという事は決して自分だけでそのダメージを留める事は出来ず、その周りをも取り囲んでしまう、そんな人々を本作でも冷静に見つめていきます。
 インドで孤児の世話をしているヤコブにとって、今一番欲しいものは施設を安定させる為の資金。そんなとき莫大な費用を投資してくれる実業家が現れます。資金を受ける為に、彼はその実業家ヨルゲンの元を訪ね、昔の自分にも対峙していく事になります。インドでの生活を第一に考えていたヤコブとデンマークで家族の事をおもうヨルゲン。彼らそれぞれの愛の形が、いつしかさまざまな運命をも巻き込んで周囲の人生をも変えていきます。
 そんなどうにもならない運命を、人はそれぞれの想いで受け入れ消化し進まねばならず、むしろ進んでしまう人間の弱さと強さにスサンネ・ビアは迫っていくのです。
 人を愛する事の責任と、その想いの強さは人それぞれ。本人には正しい選択でも与えられた方にはそれが必要かどうかは結局のところわからないわけです。確実な答えがないからこそ、それでも人は自分なりの方法で相手を思うしかない。そこに、絶対的に逃れられない孤独がある。その事を恐れてはいけないのだろうと、この映画を見て考えてしまいました。
 愛する事の責任は、いつか、生きる事の責任となり、そして生きていく居場所を自らの手でみつけることになるのだと、この物語は語りかけているようでした。
 インドでの土をイメージさせる躍動感とデンマークでの緑をイメージさせるしっとり感の対比といったにくい画づくりや、人の表情を捉える距離感のあるカメラワークも見所ではないかと思われます。デンマークが生んだ恐るべき才能お見逃しなきように。

ドキュメンタリーの神髄

 5日からの『いのちの食べかた』上映に際して、080104_100019
森達也著 理論社YA新書 『いのちの食べかた』という本を販売します。
これは、身近な出来事や題材についてさまざまな著名人たちが、噛み砕きながら尚かつきっちりと書き下ろしていく子どもたち向けのシリーズ、<よりみちパン!セ>の一冊です。
 この『いのちの食べかた』はドキュメンタリー作家の森達也監督が担当しています。2004年に刊行されているのですが、その時は全く知りませんで、今回の上映に際して私は始めてこの本を手に取り読む事になるのですが、いやあ、面白いです。子ども向けということで、子どもたちに語りかけるように、そして非常にわかりやすい言葉で、想像力を手助けするように説明をしてくれます。
 ここではお肉についてを中心に触れています。魚は丸ごと売っているけれど、お肉は丸ごとというわけにはいかない。そういえば、お魚が出荷される様子や市場の様子はTVなどでも映し出される事はあるけれど、お肉ははて、あっただろうか。それはなんでだろうか…。
 私たちが目に見えているものは、例えばスーパーに並んでいるお肉のパックの姿で、次に考えていくとそれは豚だったり牛だったりという<動物>の姿がある。けれどその「あいだ」を私たちは知らない。想像はつくけれど、どこで、どんなふうに、どうやって、と細かく考えていくとわからない。そういった「あいだ」を知る事が大事なんじゃないかと、この本でも森監督は言います。
 <そういえばそうだね>という<知っている事実>に囲まれて私たちは生活しているけれど、<そういえば、なんでそうなんだろうね>という事にまで踏み込まないでいる日常があることが、
するすると紐解かれていくようでした。
 そしてそれは同時にさまざまな事にも言えるということもあらためて。

 この本を読んでから再度映画を見返してみました。
 見えなかった事が更に見えてくるという面白みを感じます。
 映像が教えてくれる事、そして活字が教えてくれること…。

 ドキュメンタリー映画の神髄にうちひしがれた。そんな気がしました。080104_100132
 映画と合わせて是非ご一読を、お勧めします。 

===少なくとも、これだけは言える。何が大切で何がどうでもよいかの判断は、知ってから始めて出来る。知らなければその判断もできない。 森達也『いのちの食べかた』理論社===

謹賀新年

  新年あけましておめでとうございます。080102_132345

 2008年の元旦。駅伝をTVで流しながらふと庭に目をやると風花が舞っていました。例年に比べて随分とあたたかな冬を過ごしてきましたが、昨年末急に冷え込んで来た感覚があって、年明け早々雪かもなどという天気予報に、雪が降る正月、を想定はしていました。しかしすがすがしい青空にはらはらと舞う白い雪に目を奪われた瞬間に、かざはなという現象を久しぶりに思い出した、そんな少しの驚きが混じりました。そしてその美しさにしばらく見入ってしまいました。
 幼い頃には風花というのは、群馬特有のものだと聞かされていたように思います。山に積もった雪が空っ風で吹き下ろされて里に舞ってくるからということで、 この空っ風に起因するところが大きいとの話だったのでしょう。群馬に限らず山と風の関係で見られる現象ですが、山に囲まれて育った私はやはりこの風花に、冬の訪れを感じ、同時に春の兆しを感じ、なんだか懐かしいような嬉しいような特別な時間に足を踏み入れた気分になります。
 相米慎二監督の『風花』が公開されたおりに、それを「かぜはな」やら「ふうか」やらに読む人々が多かった事が思い出されました。漢字が読めないというよりは、その<かざはな>という現象を知らなかったり、そこに触れていない人々も多くいたからですね。へえ、そんなもんかあと思った事をふと思い出しました。
 生まれ育ったこの土地でまた新しい一年を迎えました。この土地でこそ感じる風土や風習を感じながら、ここでしか感じられない映画の時間を、今年もまたじっくりとお届けしていきたいと思っております。
 今年も一年どうぞよろしくお願い致します。


 

『いのちの食べ方』:余白のある人生を

 なんとも、あっという間に今日は大晦日です。02_2
数年前までは年末は家にいるのが当たり前で、お家の用事でセキチューにお掃除道具を買いにいく、とか、お正月のお花生け忘れていた!とかあわてて花屋さんへ、以外は外へ出掛ける事はなく大掃除やら年越し準備に追われている、というのが大抵のご家庭の姿だったのではないでしょうか。
 私もそんな一人だったけれど、シネマテークたかさきで一年を締めくくる方々が多くいらっしゃる事に驚くのと嬉しいのと、時代が変わって来ているのかなーなんていう気もしています。

皆さま、本年本当にお世話になりました。また、来年もシネマテークたかさきでお会いしましょう。
来年もどうぞよろしくお願い致します。

 そこでひとつ。
年始第一弾でこのタイミングに選んだ、『いのちの食べ方』を少しご紹介を。

食する ということは、生きる事と直結しています。血となり肉となる ひいては健全な体をつくるわけです。また、年越しにおそばを食べたり、お正月におせち料理をたべたり、お重の中に詰められた食品には祝いや長寿や繁栄を願ったさまざまな意味合いのある食品で埋め尽くされます。

生きるために私たちが食べているものたちは、さて、どうやって育てられ飼育され出荷されスーパーに並び私たちの手元に届くのでしょうか。
それを知る鍵が、この『いのちの食べ方』には記されています。

オーストリアのドキュメンタリー作家、ニコラウス・ゲイハルター監督によるこの作品。自国では作家性の強いドキュメンタリーを数々手がけている監督さんですが、日本に紹介される作品としては本作が始めてです。
 原題は『OUR DAILY BREAD』私たちの日々の糧 という意味です。これはナレーションもなければインタビューもない、ただ、生産現場にカメラが侵入し、その様子を収めています。
広大な畑、食肉加工工場、家畜の飼育現場などなどでのオンラインシステムや飼育状況、収穫の模様などが映し出される訳ですが、そこに私たちの想像力というものが加味される事でこの<不思議な世界>を個々が噛み砕き理解するに至ります。
 ナレーションなどを一切省く事で、物事を知り理解するという自分自身でしかなし得ない余白を、観客に与えてくれる訳です。これはなかなかすぐれたドキュメンタリー作品だと思います。
昨今の世間を騒がしている食事情を考えてみても、ともすると、大量生産だからこその問題点や、機械科への危惧などを喚起してしまいそうなネタではありますが、それをただ<映し出す事>で返って私たちは、その余白によって自分の力で考えられるに至るのです。
 知らない事は山ほどあり、その世界を垣間みる事で知らされる事の大きさ。私たちは自分たちが生きる為に命あるものをどのように食しているのか、そしてそれらは私たちが生きる為に生まれ加工されるのか。そう思えば、やはりそれは いのちをいただく 事につきるのかもしれません。
 食べ物を前に手を合わせて言う「いただきます」に一層心をこめたくなります。
 是非是非ご覧頂きたい一品です。

それでは。皆さま、よいお年を。
07

ONCE ダブリンの街角で

Once  あっという間に3周年を迎え、そしてシネマテークたかさきに2スクリーン目が出来て早2週間が過ぎようとしています。
 皆さんもう足を運ばれましたでしょうか…。

皆さんもうお気づきとは思いますが、全部、とはいいませんがほとんどの場合において、シネマテークたかさきで上映する作品というのは、並々ならぬ思いが込められています。その上映時期やタイミング、作品の並びについては、全てをご説明は出来ないにしてもそれなりの何かがあったりします。
 2スクリーン目のこけら落としに私たちが選んだ『ONCEダブリンの街角で』、それから『インランド・エンパイア』1階で上映の『パンズ・ラビリンス』に『ミリキタニの猫』それぞれが、シネマテークたかさきが2館体制になって今後どのような方向で走っていくのか、どのような映画館でありたいのかを 皆さんにお伝え出来るラインナップと自負しています。
 それぞれテイストは違いますが、映画の力を備えた作品ばかりです。

 特に『ONCEダブリンの街角で』は作品のバジェットからいけば小規模作品です。アメリカ公開時には2館でスタートだったそうです。それがみるみる間に140館公開にふくれあがったと言います。とはいえ、アメリカでの140館という数字自体がそれほど大きな数字ではないのでしょうが、2が20倍になったという事実はすごいことです。それだけ、多くの人の心を捉えたということになります。
 作品の本質は作られた段階で決まっている訳なのでそれが伝わるか否かはその後の問題でもあると思います。その後の問題自体は映画を上映する立場にあるものがじっくりやっていけばいいことですが、力のある作品を上映せずに終わる事程もったいない事はありません。
 そういう意味で、この『ONCE ダブリンの街角で』をご紹介出来る事が嬉しく、そして見て頂ける事が嬉しいと思います。これがヒットすれば尚更嬉しい。
 ダブリンの街角で歌手なる事を夢見て歌い続ける男は、ある日チェコから移民して来た女に出会います。たまたま男と女だったというだけで、恋愛ありきのスタートではもちろんないのだけれど、最初からお互いのペースでしっくりくる関係を築ける訳でもありません。が、音楽がそれぞれの心を惹き付け繋いでいきます。そのくだりがなんだかとてもロマンティックでもあり、素直に共感も出来るのです。
 魂が触れ合う相手が宇宙のどこかに必ずいて、その形はさまざまであるけれども、自分がいて、人がいるからこそ、自分の存在自体を肯定し前へ進む力を与えられる。その出会いのきっかけを作るのが音楽であり、人生の一歩を進む為に背中を押してくれるのも音楽だった、そんな物語です。
 主人公の男をアイルランドの実力派バント、ザ・フレイムスのフロントマンであるグレン・ハンサードが、女をチェコのシンガーソングライターのマルケタ・イルゴロヴァが演じているのですが、この二人の存在自体がすでに音楽に包まれていてまさに映画と人物がぴったりと合っています。
監督は、かつてザ・フレイムスのベースを務めていたジョン・カーニー。音楽への愛情と人間への愛情がすべて詰め込まれているように感じられる素敵な小品です。シネマテークたかさきという小さな劇場だからこそなおさら、音楽と映像にすっぽりと包まれた感覚でご覧頂けると思いますので未見の方は是非是非ご覧ください

馬頭琴夜想曲:職人の世界

Batoukin  『父と暮らせば』『筆子・その愛』『紙屋悦子の青春』シネマテークたかさきで上映したこの三作品とともに、今後公開予定している『人のセックスを笑うな』にはなんと共通項があります。前出の三本はなんとなくイメージが結びつくかもしれませんが、ケンイチ君主演の通称人セクで何が同じなのかというと、美術監督さんが一緒なのですね。
 鈴木清順監督、黒木和雄監督、熊井啓監督らとの名コンビで知られた木村威夫美術監督は、なんとこれまでに200本以上の映画の美術を担当されています。
 映画は言うまでもない総合芸術。作品をかたちどる<美術>は空間を作るには当たり前すぎるようにそこにあるので、ひとつひとつをじっくりと見つめることなくストーリーは展開してしまうものだと思いますが、その空間を作り込むため技術と時間と労力は相当の物があると推測されます。まさに芸術です。その細部までのこだわり、色彩感、重量どれひとつをとっても、存在感が際立つなあとおもうのが、木村威夫監督の美術だと言う人は数多くおられるでしょう。もちろん、それは作品のテイストによってさまざまに変化はするし、その振り幅の広さも群を抜いている訳ですからその職人技には恐れ入る思いがします。
 その木村監督が自らメガホンをとったのがこの『馬頭琴夜想曲』。長崎の原爆が引き金となる物語が、幻想的に描かれます。いわゆるイメージ論的に展開されてゆく奇想天外さは誰にもまね出来ない物なのだろうとあっけにとられながら、55分間を見終えてしまうと思います。イメージを物で捉え直す作業の末に生み出された異空間が、<幻想世界>を<手で作り込む>というアナログな動きによって構築されて行くわけで、そこに往年の職人気質を垣間みる思いがしました。
 その幻想世界になくてはならないのが、山口さよ子さんだ、と言わんばかりの<ザロメ>が際立つのはいうまでもありません。惜しくも先日急逝した山口さよ子さんですが、極彩色の衣につつまれたいつまでも色あせる事ない彼女自身がそこにいます。追悼上映でもある本作、異空間・異次元につままれて みてはいかがでしょうか。

転校生-さよならあなた- :

 071014_101903 13日からの上映の『転校生-さよならあなた-』ただいま館内にて撮影風景の写真展示、及びロケ地マップを配布しております。

 この作品はいうまでもない、大林宣彦監督の愛にあふれた傑作です。大監督の作品をわざわざそんなこというのもおこがましいですが…、リメイクがたどる道など払拭したすばらしい作品です。しかしながら、この作品はとても小さな環境での上映となりました。興行的な大きなラインに乗らないからこその味わいのある上映を重ねて、高崎にたどり着いたものでもあります。

 本作は、長野県で撮影されました。「50年後の長野の子どもたちに見せたい映画をつくりたい。」という地元の声で立ち上がった企画なんだそうです。その気持ちに感銘をうけた大林監督の手腕と、地元の方々のその土地を愛し、人を愛し、映画を愛する気持ちにあふれた心がふれあった『転校生-さよならあなた-』です。80年代一世を風靡した大林作品の良さ、素晴らしさは寸分も違うことなく、むしろ 時代を重ねたものにしか作り出せない、<皺>のある、作品。

 さまざまな色合いを持った映画がある中で、こんな大きくて小粒な良品を人々にお届けするにはどうしたらいいものかと、頭を悩ませていたところ、 大林監督の大ファンのYさんが、それはファン同士の嗅覚というのか…、すばらしいフットワークでどんどん長野の方々に連絡を取ってくれました。直々に、ロケ地の撮影風景の写真をお借りし、ロケ地マップを送っていただき、シネマテークたかさきにお越しいただくお客様に映画の誕生やそれに触れるさまざまな想いを一緒にお届けすることが出来ています。21世紀長野映画の会の方々、長野の皆さんありがとうございます。この場をお借りしてお礼を申し上げます。

 映画を通して隣県の人々と、私たち小さな映画館がこんな風につながり触れ合えるとは、なんとも嬉しいことだと思っています。

 映画のストーリーはもちろんですが、そこに生きている主人公たちの少し古めかしいような新しいような若さがいいのです。そして、映し出される町並みは、近代的な建物が立ち並ぶいわゆる洗練さと総称される綺麗感ではないし、大自然に裏づけされた美しさ、というのとは一味もふた味も違って、人が生活しているその生活がにじみ出ている素朴な光景であり、それを表現するにはやっぱり、<美しい町並み>というんだろうな、という風合いに彩られています。思えば、邦画界でこういった町並みや人の皺 年季の皺を じっくりと作品に投影できる監督さんって少ないんだろうなとふとそんなことを感じてしまいました。

 映画の良し悪しも自分の中にあるとするなら、それはどんな判断でも基準でもいいのでしょうが、映画をモノとしてというよりも、作品として映画を作った人々の裏側も感じつつ上映していきたいと、こんなときに強く思うのです。もちろん、それが作品としての完成度や質が高ければいうことありません。

 前職場の先生があるとき、こんな言葉をおっしゃいまいた。

「これから先は、懐かしい未来でありたいとぼくは思うんだ。」と。全てが新しく機能的であることが未来というのではない。人が知恵と心を使って生きてきた時代は、懐かしいと感じてしまうけれど、それこそが未来への光に成るのだろうと。『転校生-さよならあなた-』に、その言葉の重みを感じてしまいました。

 小・中・高校生のみなさん、是非足を運んでみてください。そしてお母さんお父さん是非これご覧になって、お子さんたちにご紹介ください。 そしてそして、多くの方々にご覧頂きたいと思います。21日までの上映です。