普遍性のヴェール
先日、青山学院大の狩野良規教授のラジオ番組を聴いた。テーマは『イギリス映画』であった。狩野先生はイギリス文化・文学が専門で、ショイクスピアやイギリス映画に深い造詣をお持ちの方である。先生はこんなことをおっしゃていた。イギリスといえばシルクハットをかぶった紳士や、アフタヌーンティーを楽しむ人々の姿がパッとあたまに浮かぶけれども、もはやそういった光景は過去の遺物である。それは外国の方が日本人と聞いてゲイシャを想起することと同じだと。
では、僕ら日本人は「イラン」と聞いて何を思い浮かべるか?おそらくは「イスラム原理主義」「イランイラク戦争」「女性がまとうヴェール」など、思い浮かぶ割には日本人にとって苦手分野の、謎めいた何かばかりではないか。公開中の『ペルセポリス』は、そのような謎めいた"靄(もや)"をマルジというヒロインの成長を通して、それはそれは見事に、心地いいまでに吹き払ってくれる。そういえば、2/27のモギマサ日記のコメントで、僕もよく存じ上げているtutiさんがなかなか面白いことをコメントされている。『ペルセポリス』を評して<21世紀の『風の谷のナウシカ』>だと。なるほど。tutiさんのオリジナリティあふれる表現はいつも面白い。これからも書き込み宜しくお願いいたします。
さて、謎めいた"靄"を吹き払うという意味では、『ペルセポリス』は溝口健二の『祇園の姉妹』のようにも思える。溝口は1936年のこの作品で、日本人でも垣間見ることのできない祇園のゲイシャの"生態"を描き出し、後の世に語り継がれる溝口流リアリズムをここから出発させた。"靄"につつまれ、境界に遮られた空間(あくまで外部の人間の視点であるが)の内側で生きる女性の生き様が克明に描かれているという意味で、『ペルセポリス』のマルジは『祇園の姉妹』の山田五十鈴(当時19歳)に相当する若き名女優だ。『ペルセポリス』はそれほどまでの傑作である。
想像を絶する、かくも厳しいイラン現代史と、その中を生き抜くマルジの家族との関わりの描写が、教科書では教えてくれない中東の大国の現実を伝える。この物語は使い古された、よくある少女の成長譚ではない。この作品に"イラン人女性の…"という枕詞を付けるべきでもないだろう。先の狩野教授はケン・ローチの『麦の穂をゆらす風』を例に挙げながら、こんなことをおっしゃっていた。地域性や独自性を追求することで、物語は普遍性を得るものだ、と。『ペルセポリス』は既にそのような「普遍性のヴェール」をまとい、すべての女性のために屹立している。残りあと一週間の上映。お見逃しなく。
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