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"幸(さち)"の裏側

Sachiari  映画のフィルムは縦方向に24コマ/1秒のスピードで流れる。1度ご覧いただくと分かるのだがこれは結構なスピードである。そしてこのフィルムの流れが連続したものではなく、間欠運動だということを説明すると大抵の方は驚きを隠さない。間欠運動をしているということは、フィルムに光があたる映写窓ですべてのコマが1度止まっているという意味である。なんと働き者の映写機でありフィルムであろうか。このことを思うとき僕はいつも彼らの働きぶりに感心してしまう。事実、映写室では朝から晩までこの運動が繰り返されているのである。しかも基本的には休業日無しで、この"仕事"は毎日続いている。
 この間欠運動を支えているのが、映写窓の入口と出口につくられるフィルムの"たわみ"である。ループと呼ばれるこの"たわみ"がなければ、フィルムが流れてしまったり、強いテンションが掛かってフィルムそのものを痛めてしまうことになる。それ以外の部分では、スプロケット(歯車)の爪をパーフォレーション(フィルムにあけられた穴)が弛みなく渡っていくのだが、2箇所だけもうけられたこの"たわみ"のおかげで映像がガタつかないような仕組みになっている。
 今週、オタール・イオセリアーニ監督作品がシネマテークたかさきに初登場した。『ここに幸あり』だ。こうしてまたひとつ、マエストロの作品を迎えられたことが何とも嬉しい。そう、そして今回もまた相も変わらず、『素敵な歌と舟はゆく』『月曜日に乾杯!』の流れにのって、生きることにおける"たわみ"の大切さを面白可笑しく投げかけてくれている。
 しかしながら困ったことに、「映画は人生」などと言って、お客様にいい映画をお届けしておりますという風を装いながら、人生の何たるかを映画そのものから学んでいないのが、実は映画館なのだ。毎日休むことなく、朝から晩まで、24コマ/1秒のスピードでフィルムは回り続けている。僕らは映画館というものはそこを訪れるすべての人々のためにあるのだから毎日開いているのが当然と思っているし、またそうしなければ、劇場経営も成り立たないからだ。"たわみ"がなければ映写が成り立たないことを十分承知しているにもかかわらず、映画館は毎週プログラムを変え、毎日緊張状態を続けている。もしかしたらイオセリアーニ作品を上映するのに、もっとも相応しくない施設こそ常設映画館なのかもしれない。これぞ、"イオセリアーニ・パラドックス"とでも命名しようか。
 映画館ならずとも、そういった緊張状態の連続に「?」を投げかけ続けているのが、グルジア生まれのイオセリアーニ監督だ。この人生の先輩はよくご存知なのだ、緊張状態がしばしば負の流れの源流になりかねないことを、そしてそのことの恐ろしさを。『ここに幸あり』ではお気楽極楽ムードの反面、人々の対立がちらほらと描かれている。作品の裏側にある何かについて、僕らは気に留めておかなければならないだろう。フランスの移民の間に広がっている不満と社会の亀裂を。昨年、監督の故郷グルジアで発動された非常事態宣言のことを。そして世界を極度の"緊張状態"に陥れた、あのヨシフ・スターリンが監督と同郷のグルジア生まれだということを。

 とまあ、こんなこんな風に小難しいことを考えながら、映画を観てはいけないということもおそらくイオセリアーニは言っているのだろうけど(笑)。

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