フォトアルバム
Powered by Six Apart

最近のトラックバック

 

« 文化住宅のこと | メイン | 前売券追加 »

1994

Kurtcobain  ちょうど2年前、当館ではオアシス、ブラーに代表される90年代ブリットポップ・シーンのドキュメンタリー『リブ・フォーエヴァー』を上映しました。あの時、あの映画を観て、当時の状況をいろいろと思い出したのですが、中でもとりわけはっきりと甦ったのは、ブリットポップを彩った面々にまつわることではなく、1994年のカート・コバーンの自殺によって生じたミュージックシーンの潮境の記憶でした。大して長い時間を生きている訳ではありませんが、あんなにはっきりと音楽界の潮境を体験できたことは、それ以前もそれ以後も僕にはなかったことだったのです。

 1994年という年は映画業界にとっても"潮境"といえる年でした。日本のスクリーン数は1960年にピークに達し、7,457にまでに増加しました(映連統計より)。しかしながら以降は減少の一途をたどり、90年代には1,734にまで落ち込みました。つまり、日本中で映画を観られる場所が、30数年をかけて、ピーク時の1/4以下の数にまで減ってしまったのです。しかし…、ある年を境に、このような急下降線をたどってきたスクリーン数に変化が訪れます。今や全国に溢れるシネコンの登場により、一転して増加傾向に変わったのですが、その潮境と言える年が「1994年」でした。今や全国のスクリーン数は2006年末のデータで3,062。そのうち"主流"のシネコンが2,230を占めています。

 90年代前半、あの頃の文化的スペースの中には、グランジというオルタナティブな音楽ジャンルを受け入れることができるだけのバッファがあったのでしょうね。主流と大勢からの拒絶をアイデンティティとしてきたカートのような存在を受け止められるだけの空き領域みたいなものが。でもそんな領域が、まるで地球温暖化の波にさらされている北極の氷のように、現在の世界で急激に溶けて減り続けているような気がしてならないのです。音楽や映画の文化的側面を支える大切な領域が。その溶解の始まりと言っては言い過ぎかもしれませんが、「1994年」という年にはそのきっかけのいくつかが眠っているように思えてなりません。

 『カート・コバーン アバウト・ア・サン』。カートの肉声で綴られる97分。予告編のナレーションは浅野忠信さんが担当しています。僕と同じ年ですねえ。頭に乗るなと誰かに怒られそうですが、あの仕事を引き受けた浅野さんの気持ちがなんとなく分かる気がしてならないのです。僕は、浅野忠信という映画俳優が『幻の光』(1995)、『PiCNiC』(1996)、『Helpless』(1996)と、日本映画界の中でいわゆる主流から距離を置き、何かにとり憑かれたかのように独自の階段を駆け上がって行った時期が「1994年」以降だったことも、決して偶然の一致ではないと思っています。さて、そこんとこ、どうなんでしょうか、浅野さん?!コメントお待ちしています!(笑)

トラックバック

このページのトラックバックURL:
http://app.kazelog.jp/t/trackback/24816/10362351

1994を参照しているブログ:

コメント

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認するまで表示されません。