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休館のお知らせ

 昨年12月15日に2スクリーンになって早一ヶ月が過ぎました。
皆さまもう足を運ばれましたでしょうか。

 ご周知のとおりの特急での2スクリーンオープンだった事もあり、稼働後一ヶ月点検ならぬ、館内設備点検と補修のため2月4日(月)に一日お休みをさせて頂きます。
スタートしてみて気がついた不備な点や改良点を改善していきます。
どうぞご理解の程よろしくお願い致します。

 

14歳:もの言う背中

 

14_6 これからの日本映画界を背負って立つに違いない、立ってもらわないと困る、人たちが、映像ユニット<群青いろ>だ。映画界のこれからといえば、他にも数人はうかぶけれど、彼らはどこか違う世界を浮遊しているように見える。今回の『14歳』は脚本を高橋泉が手がけ、主演と監督は廣末哲万が手がける。それぞれに役者も出来、本を書き、監督業もする。2人は強力なタッグを組み、その時々でその役割を変える。今年度のフィルメックスで発表された群青いろの作品『むすんでひらいて』では、高橋さんが監督をしていた。これがまたなかなかに色濃くて苦しくなる映画で、これもいつかうちで上映したい。
 さて、今回のこの作品は、今の14歳をクローズアップしていくのだけれど、実は、彼らに対応するかつての14歳=いわゆる大人たち の身ぐるみはがしていくような、そんな物語でもある。思春期の危うさや、孤独感、不安を抱える中学生たちは、それでもどうにか年を重ねて大人になる。誰もがそうやって進んで来て大人になるわけだけれど、大人と言われる人種は、消化出来ない14歳の自分がどこかにいることに気がつかない。しかしどこかで、その消化出来ない事をどうしようもないこととして何かの理由にしてしまう。その弱さと、向き合わなさを執拗に暴いていく。
 その暴かれる一人、教師役の香川照之さんの演技は絶品だ。今の邦画界でこの役者を使いたいと熱望する監督は今や一番多いのではないかと思う彼が、この若手の作品の出演を快諾した事もすごいし、当たり前だけどこの難しい役はなかなか出来る人もいないのだろう。正面切ったショットよりも斜めや背中で捉えられる香川さんにこそ、この役柄のすべてが注ぎ込まれている。高圧的で生徒を指導する立場の教師・小林、真正面から見据える彼はにこりともせず、全てが正しいかのような威嚇をする。しかしながら、風をきるかのように肩を揺らしながら歩く背中は、首をすぼめ背を丸め、体の重心は定まらずに揺れている。足早に去る後ろ姿に、恐れと不確定な自分への不安がすべて取り込まれている。ああこの人も、怖いのだと一瞬にして思わせる。
 恐るべし、香川照之である。
 怖さと不安は閉塞感という言葉に換えられる。学校という箱の中で捉えられる事でそれはみるみると形を現す。26歳の杉野と深津は14歳の中学生たちと向き合う事で改めて自分たちの中の消化しきれないものを見つけ出していくが、それすらもすでに出来なくなってしまった大人たちの存在がある。小林という教師像がそのなんたるかを象徴しているようだった。背中は物事を語るのだ。悲しい程に。
 向き合う事の怖さは、画面という外の世界に背を向けることで現れ、また、登場人物は画面に対して背を向けながら、自分たちの前に立ちはだかる道を眺める。その背中にさまざまな意味合いを感じずにはいられなかった。
 辛辣なまでの人間描写に苦しくなるかもしれない。けれど、その後に息を吹き返せるだけの希望も込められている。
 「自主制作でいい。自分たちの撮りたい物を撮り続ける。」そう言い切った群青いろから私は絶対目を離さないでいたい。14_4

呉清源ー極みの棋譜ー:極

 

Goseigen 絶対音感をもっている人は日常の生活で出る音全てが音階をもってしまうので、音の合わせが悪いと気持ち悪くなってしまう、なんて話を聞いた事のある人は多いのではないでしょうか。それと同じように、囲碁の天才はすべてが碁盤に見えてしまうんだという話を聞いた事があります。人が歩いていたり、並んでいたりのその配置で碁石を浮かべてしまうのだそうです。自分の生活自体が才能と一体化して切り離してはいられない、という天才の性。人より優れた才能を持ち得るという事は、人より少し生きにくいという局面もあるのかもしれません。
 この物語は、中国で生まれた呉清源さんの半生を綴ったものです。今もなお健在の昭和の棋聖についてを物語るのは『青い凧』、『春の惑い』のティエン・チュアンチュアン監督。そしてそして、孤高の天才棋士を演じるのが、チャン・チェン。傑作中の傑作、エドワード・ヤン監督の『クーリンチェ少年殺人事件』の主人公を演じたあの青年です。素晴らしい表現力はもちろんのこと、とにかく天性の美しさが画面に際立って現れます。
 14歳で日本へ渡り、戦後の混乱期から生涯を異国の地で生抜いている呉清源とはどんな人物であり、どのように生きて来たのか。天賦の才能とそれゆえの苦悩、悲しみ、孤独、それがティエン監督が作り出す画面に否応なく現れ、そこに佇む一人の人間の厳かで静かなただづまいには息を飲みます。
 極める事への畏敬の念を持ってこの映画を見つめてしまいました。
是非ご覧ください。

アフター・ウェディング:必要な孤独

 

Pic_4_1_2006_8_39_06316 好調な出足を切った『いのちの食べかた』の後ろでひっそりと始まった(単なるイメージですが…)『アフターウェディング』。いい作品だけに、地味さが先行してうまくお客様に浸透しなかったらもったいないと心配していましたが、お客様の反応は上場で少しほっとしています。個人的にはとても好きな作品です。
 デンマーク出身のスサンネ・ビアは、2002年に発表したドグマ作品『しあわせな孤独』で一躍世界的にも脚光を浴びることになりました。かねてより本国ではその才能は高く評価されていて徐々に本国から世界へとフィールドを広げ、昨年はついにドリームワークスで新作も製作され、日本でも今後公開されるだろう大活躍が期待される女流作家のお一人です。
 彼女が描くのは、人間そのもの。ささやかな生活を静かに営んでいても、自分の力ではどうにもならない、<他の力>によってそれまで平穏だった日常がいつ何時がらりと変わるかわからない。人はそういうとてつもなく大きなゆらぎの中で、生きています。忍び寄る悲しい運命は、受けた自分も大きなダメージを受けるけれど、人が生きるという事は決して自分だけでそのダメージを留める事は出来ず、その周りをも取り囲んでしまう、そんな人々を本作でも冷静に見つめていきます。
 インドで孤児の世話をしているヤコブにとって、今一番欲しいものは施設を安定させる為の資金。そんなとき莫大な費用を投資してくれる実業家が現れます。資金を受ける為に、彼はその実業家ヨルゲンの元を訪ね、昔の自分にも対峙していく事になります。インドでの生活を第一に考えていたヤコブとデンマークで家族の事をおもうヨルゲン。彼らそれぞれの愛の形が、いつしかさまざまな運命をも巻き込んで周囲の人生をも変えていきます。
 そんなどうにもならない運命を、人はそれぞれの想いで受け入れ消化し進まねばならず、むしろ進んでしまう人間の弱さと強さにスサンネ・ビアは迫っていくのです。
 人を愛する事の責任と、その想いの強さは人それぞれ。本人には正しい選択でも与えられた方にはそれが必要かどうかは結局のところわからないわけです。確実な答えがないからこそ、それでも人は自分なりの方法で相手を思うしかない。そこに、絶対的に逃れられない孤独がある。その事を恐れてはいけないのだろうと、この映画を見て考えてしまいました。
 愛する事の責任は、いつか、生きる事の責任となり、そして生きていく居場所を自らの手でみつけることになるのだと、この物語は語りかけているようでした。
 インドでの土をイメージさせる躍動感とデンマークでの緑をイメージさせるしっとり感の対比といったにくい画づくりや、人の表情を捉える距離感のあるカメラワークも見所ではないかと思われます。デンマークが生んだ恐るべき才能お見逃しなきように。

ドキュメンタリーの神髄

 5日からの『いのちの食べかた』上映に際して、080104_100019
森達也著 理論社YA新書 『いのちの食べかた』という本を販売します。
これは、身近な出来事や題材についてさまざまな著名人たちが、噛み砕きながら尚かつきっちりと書き下ろしていく子どもたち向けのシリーズ、<よりみちパン!セ>の一冊です。
 この『いのちの食べかた』はドキュメンタリー作家の森達也監督が担当しています。2004年に刊行されているのですが、その時は全く知りませんで、今回の上映に際して私は始めてこの本を手に取り読む事になるのですが、いやあ、面白いです。子ども向けということで、子どもたちに語りかけるように、そして非常にわかりやすい言葉で、想像力を手助けするように説明をしてくれます。
 ここではお肉についてを中心に触れています。魚は丸ごと売っているけれど、お肉は丸ごとというわけにはいかない。そういえば、お魚が出荷される様子や市場の様子はTVなどでも映し出される事はあるけれど、お肉ははて、あっただろうか。それはなんでだろうか…。
 私たちが目に見えているものは、例えばスーパーに並んでいるお肉のパックの姿で、次に考えていくとそれは豚だったり牛だったりという<動物>の姿がある。けれどその「あいだ」を私たちは知らない。想像はつくけれど、どこで、どんなふうに、どうやって、と細かく考えていくとわからない。そういった「あいだ」を知る事が大事なんじゃないかと、この本でも森監督は言います。
 <そういえばそうだね>という<知っている事実>に囲まれて私たちは生活しているけれど、<そういえば、なんでそうなんだろうね>という事にまで踏み込まないでいる日常があることが、
するすると紐解かれていくようでした。
 そしてそれは同時にさまざまな事にも言えるということもあらためて。

 この本を読んでから再度映画を見返してみました。
 見えなかった事が更に見えてくるという面白みを感じます。
 映像が教えてくれる事、そして活字が教えてくれること…。

 ドキュメンタリー映画の神髄にうちひしがれた。そんな気がしました。080104_100132
 映画と合わせて是非ご一読を、お勧めします。 

===少なくとも、これだけは言える。何が大切で何がどうでもよいかの判断は、知ってから始めて出来る。知らなければその判断もできない。 森達也『いのちの食べかた』理論社===

謹賀新年

  新年あけましておめでとうございます。080102_132345

 2008年の元旦。駅伝をTVで流しながらふと庭に目をやると風花が舞っていました。例年に比べて随分とあたたかな冬を過ごしてきましたが、昨年末急に冷え込んで来た感覚があって、年明け早々雪かもなどという天気予報に、雪が降る正月、を想定はしていました。しかしすがすがしい青空にはらはらと舞う白い雪に目を奪われた瞬間に、かざはなという現象を久しぶりに思い出した、そんな少しの驚きが混じりました。そしてその美しさにしばらく見入ってしまいました。
 幼い頃には風花というのは、群馬特有のものだと聞かされていたように思います。山に積もった雪が空っ風で吹き下ろされて里に舞ってくるからということで、 この空っ風に起因するところが大きいとの話だったのでしょう。群馬に限らず山と風の関係で見られる現象ですが、山に囲まれて育った私はやはりこの風花に、冬の訪れを感じ、同時に春の兆しを感じ、なんだか懐かしいような嬉しいような特別な時間に足を踏み入れた気分になります。
 相米慎二監督の『風花』が公開されたおりに、それを「かぜはな」やら「ふうか」やらに読む人々が多かった事が思い出されました。漢字が読めないというよりは、その<かざはな>という現象を知らなかったり、そこに触れていない人々も多くいたからですね。へえ、そんなもんかあと思った事をふと思い出しました。
 生まれ育ったこの土地でまた新しい一年を迎えました。この土地でこそ感じる風土や風習を感じながら、ここでしか感じられない映画の時間を、今年もまたじっくりとお届けしていきたいと思っております。
 今年も一年どうぞよろしくお願い致します。