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小さな大人

Konomichiwa_3

 「母をたずねて三千里」ファンはきっと、『この道は母へとつづく』というタイトルに少年マルコの物語を重ね合わせることだろう。そして、この作品をまだご覧頂いていない皆さんにとっては、物語の主人公であるワーニャが果たしてお母さんに会えるのか会えないのか、そのことが何より気になるところだろう。僕もそうだった。しかし、この作品を観終わって冷静に振り返ったとき、この作品の映画としての魅力は、結末とはまったく別のところにあると感じた。特に、少年ワーニャが母親探しに旅立つ前の、孤児院をめぐる社会の描写がすばらしいのだ。不遇な孤児同士が肩を寄せ合って力強く生きているというような、美化され過ぎたイメージからはかけ離れた孤児院の世界がそこにはある。年少者と年長者の間には厳しい"ルール"に基づい た上下関係が存在し("ルール"を破った者には制裁が待っている)、窃盗を働く少年や金のために身体を売っている少女もいる。孤児たちのふるまいに目が行き届かない院長ら大人たちがいて、養子縁組のため孤児を外国人の養父母に斡旋し利益を得る業者までいる。わずか6歳の少年ワーニャがたったひとりで母親探しの旅に出るという物語の根幹のみがある意味非現実的であり、その他の部分については徹底した現実が描かれている。少年がどのような現実から旅立ったのか、ということについて細部にわたった事細かな描写があるのだ。しかし今や日本の映画界で好まれているのはとかく、旅立ったその後の"非現実"世界の側の方だ。製作、配給、上映、そして観客の大半が、そういった傾向を好む。もちろんそういう"歯ごたえのない"傾向を憂いて、もう片方の側を見つめようとしている人たちは確かにいるけれど、その流れの勢いはあまりにも強い。
 劇中、大切な事柄を物語の行間に込めるというロシア映画らしい手法も用いられている。何よりもこの映画はあまり多くを語らない。暗喩とまでは言わないが、僕らはワーニャのこころの内側を彼の行動から連想しなければならない。これは作り手による、観客の想像力への期待のあらわれだ。こういう期待は観客としてうれしいものだ。真逆の映像文化にさらされ過ぎているせいだろうか。
 つまり、この映画は子供を描きながらも、しっかりと大人のための映画になっていると言える。映画とは大人のための文化であって、そうであり続けなくてはならないと僕は個人的に思っている。子供たちはそれに背伸びをしてついて来るくらいがちょうどいい。この作品は文部科学省の特別選定(青年向き、成人向き)、選定(少年向き、家庭向き)を得ている。僕らは幸か不幸か、生きてゆく上でのあらゆる何かを与えられて"しまって"いる。大人でさえこの映画の奥行きを想像し、環境の違いを乗り越えたところへたどり着くのは容易ではあるまい。子供のために用意された歯ごたえのない映像に飼いならされた日本の子供たちは、この映画に何かを求めてくれるだろうか。劇中の孤児たちの置かれる環境はあまりにも厳しい。だからこの地では子供たちが過ぎた子供扱いをされることがまったくない。まるで、子供というものは"小さな大人"なのだと、映画が僕らに告げているかのようだ。

普遍性のヴェール

Persepolis_2   先日、青山学院大の狩野良規教授のラジオ番組を聴いた。テーマは『イギリス映画』であった。狩野先生はイギリス文化・文学が専門で、ショイクスピアやイギリス映画に深い造詣をお持ちの方である。先生はこんなことをおっしゃていた。イギリスといえばシルクハットをかぶった紳士や、アフタヌーンティーを楽しむ人々の姿がパッとあたまに浮かぶけれども、もはやそういった光景は過去の遺物である。それは外国の方が日本人と聞いてゲイシャを想起することと同じだと。
 では、僕ら日本人は「イラン」と聞いて何を思い浮かべるか?おそらくは「イスラム原理主義」「イランイラク戦争」「女性がまとうヴェール」など、思い浮かぶ割には日本人にとって苦手分野の、謎めいた何かばかりではないか。公開中の『ペルセポリス』は、そのような謎めいた"靄(もや)"をマルジというヒロインの成長を通して、それはそれは見事に、心地いいまでに吹き払ってくれる。そういえば、2/27のモギマサ日記のコメントで、僕もよく存じ上げているtutiさんがなかなか面白いことをコメントされている。『ペルセポリス』を評して<21世紀の『風の谷のナウシカ』>だと。なるほど。tutiさんのオリジナリティあふれる表現はいつも面白い。これからも書き込み宜しくお願いいたします。
 さて、謎めいた"靄"を吹き払うという意味では、『ペルセポリス』は溝口健二の『祇園の姉妹』のようにも思える。溝口は1936年のこの作品で、日本人でも垣間見ることのできない祇園のゲイシャの"生態"を描き出し、後の世に語り継がれる溝口流リアリズムをここから出発させた。"靄"につつまれ、境界に遮られた空間(あくまで外部の人間の視点であるが)の内側で生きる女性の生き様が克明に描かれているという意味で、『ペルセポリス』のマルジは『祇園の姉妹』の山田五十鈴(当時19歳)に相当する若き名女優だ。『ペルセポリス』はそれほどまでの傑作である。
 想像を絶する、かくも厳しいイラン現代史と、その中を生き抜くマルジの家族との関わりの描写が、教科書では教えてくれない中東の大国の現実を伝える。この物語は使い古された、よくある少女の成長譚ではない。この作品に"イラン人女性の…"という枕詞を付けるべきでもないだろう。先の狩野教授はケン・ローチの『麦の穂をゆらす風』を例に挙げながら、こんなことをおっしゃっていた。地域性や独自性を追求することで、物語は普遍性を得るものだ、と。『ペルセポリス』は既にそのような「普遍性のヴェール」をまとい、すべての女性のために屹立している。残りあと一週間の上映。お見逃しなく。Gionnokyodai