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Arata_4   『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』が好調だ。その理由は語るまでもなく、うやむやにされてきた視界の利かないその先の世界、学生運動から山岳ベース、あさま山荘にいたる事件の内側を僕らがどうしても視認したいがためだろう。この群像劇のあまたの登場人物の中でひとり。どうしても他人に思うことができないあるひとりの男性に僕の心が傾く。「総括」という名の粛清が行われた榛名の山岳ベースで、彼は上から数えて3番目の幹部としてそこにいた。幹部とはいえ、おそらくは疑問を感じながらも最高幹部の森や永田に逆らうことができず、「総括」を幇助し、仲間を血祭りにあげた。あさま山荘では、銃による殲滅戦を貫徹しようとしたか、はたまた走り出した感情を抑えることができなかったのか、森・永田の逮捕の後、半ば「最高幹部」に押し上げられたかたちで、彼は国家権力に銃口を向けた。その人物の名は、坂口弘という。

 自立をした人間になれと言われても、僕らの意思決定がどれだけ自己発生的なものであり続けることができるだろうか。そんな赤色に染まる強靭な意志を持つ人間がどれだけいるというのか。「連合赤軍」と名乗りつつも、その各々の心の色までが果たして、鬼や炎や血液の赤色だったろうか。映画の中の坂口弘は、少なくともそうではなかった。そこに透けて見えたのはむしろ青だ。若さや理性や冷静さや誠実さの青。そういう青を内に抱える人物像だ。

 そんな坂口弘を映画の中で演じたのが、ARATAだ。『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』は「赤」の映画ではない。エンドロールが流れるスクリーンに、僕は深い「青」が滲み出てくるのを見た。グラフィックデザインの世界では、印刷物等の上下に同色の帯を用いることを「締める」という。こうすることでデザイン全体が引き締まることがあるからだ。ARATAの存在感により、この作品の天地には青の帯が敷かれた。憂いと哀しみの青。眼に見えずとも天地を青に締められたスクリーンに、僕は不思議な安らぎを覚えた。

 そして、これは「たら・れば」の話になってしまうのだが、あの山岳ベースに「緑」の大地のような包容力のある存在がいてくれたらと、いま心から思う。連合赤軍が年齢の近い者同士の集団だったことを考えれば、それは男性でも女性でもいい、森や永田や坂口らとは別の視座を得ている年長者がいれば、彼らの運命は違ったものになっていたかもしれない。社会は様々な年齢層によって構成されてしかるべきなのだから。光の赤、青、緑はそれぞれ混ざり合うと白になる。白になり得なかった空間で、赤と青がせめぎ合い、12人の命が失われた。そして皮肉にも、連合赤軍最後の戦闘の舞台はあさま山荘、白色の雪景色の中での銃撃戦となってしまった。

 死刑が確定している坂口氏は1986年から現在に至るまで、獄中で短歌を詠み続けている。作品を観て、昨年11月に出版された氏の歌集『常しへの道』(角川書店)を読んだ。彼の師匠・佐佐木幸綱氏が綴るあとがきの言葉通りに、僕はこの歌集を死刑囚としてではなく、歌人・坂口弘の著作として読み進めた。この歌集からいくつかの歌を紹介したい。

好みの色は 赤色と無理に答えにき 感性よりも思想の吾は

染みのある白きセーターを 他の色に染むるごときか 事件の総括は

一夜明けて 雪化粧せるアルプスよ 連赤の名も厳かに変れ

 彼を他人と認めることができなかった理由は簡単だ。走り、叫び、苦しみ、悩むその姿。他でもない僕が坂口であり、僕らが坂口であるからだ。幸か不幸か、1972年2月、彼はあさま山荘で銃を手にしていた。幸か不幸か、2008年6月、僕らはそこからほど近い高崎の街で彼の映画を観ている。もしかしたら僕らが銃を手にして、彼が映画を観ている人生だってあり得たかもしれない。白銀の世界を背にしたARATAという白く、透明感のある役者の一挙手一投足に、僕はそんな幻を見た。  

※6月20日(金)『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』16:30の回 ARATAさんの舞台挨拶が決定。詳しくはこちら→click!

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