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「最高」の「再考」

Kawashima_2 「誰だって下手なもの創ろうと思っていないのでげすよ」
 ・・・川島雄三が"愛弟子"の藤本義一氏に語った言葉

 今日で「川島雄三レトロスペクティブ」は8作品のうち5作品が終了。残るは『女は二度生まれる』『洲崎パラダイス 赤信号』『雁の寺』の3作品。各作品ともに3日間で6回ずつの上映がある。最終上映は20:00~。時間に縛られている社会人の皆様も何とか仕事を片付けて、この3日間、是非とも駆けつけていただきたい。
 さて「レトロスペクティブ」とは、ラテン語の"retro(後ろ:後ろを向く)"に"specto"から派生した"spective(見る)"を合成した単語である。「回顧的な」という意味の形容詞であり、これが名詞として機能すると「回顧展」となる。しかしこういった企画の本来意図するところは、「回顧」というよりは「再考」であろう。中にははじめて出会う作品もある訳だから「考察」という場合もありうる。今回の「川島雄三レトロスペクティブ」にあたり、僕は作品を観ながら「最高傑作」というものについて「再考」し、「考察」している。
 「川島雄三といえば『幕末太陽傳』」、一般的にはこう言われている。『幕末太陽傳』は川島雄三を語る上でついて回る形容詞的な作品であろうし、川島の「最高傑作」であると評する人や文章は数多い。しかし、今回の「再考展」から得た僕なりの実感は、『幕末太陽傳』は川島の最高傑作ではない、というものだ。玉石混交といわれる川島の作品を観ていると、「川島雄三とは×××な監督だ」という定義付けをあきらめざるを得ない。女の生き様を描くにあたっても『女は二度生まれる』という「軽やかさ」と『花影』という「絶望」を、同一年にこの世に送り出した監督である。このあたりの変わり身の妙と作品ジャンルの幅広さが川島雄三という監督の面白さだと思う。「最高傑作」という作品評価は、その作家の位置を整理するための、ひとつの印付けに過ぎないだろう。社会が作家の最高傑作を暗黙のうちに決め、やがてその作家の形容詞とすることで、その作家の評価を縛り上げる。音楽のベストアルバムがよく売れるのと同じで、「最高傑作」と呼ばれる作品には誰もが飛びつき、そしてその「最高傑作」を自分の内に取り込むことで、その作家を理解したかのような錯覚に陥る。最高傑作もそうでないものも、横一列に上映してしまう「レトロスペクティブ」とは、そのような呪縛や錯覚を断ち切るための、いわばナイフのようなものだ。それまで名も知らなかったような作品から、僕らはその作家の中に新たな発見をすることとなる。「下手なものを創ろうと思っていない」作家の様々な趣向を様々な作品の中に見ることで、そこから「最高」の「再考」がはじまり、「最高」という位置づけの無意味さを知る。「レトロスペクティブ」とはそのような場ではないだろうか。
 
※明日から上映の3作品と『幕末太陽傳』
『女は二度生まれる』は、色とりどりの着物を着こなし、次から次へと男を乗り換える小悪魔・小えん(若尾文子)の終着点が必見。『洲崎パラダイス 赤信号』は『青べか物語』同様、橋の上のシーンに始まり、橋の上のシーンに終わる。男と女の間にかかる「橋」の物語であり、川島がもっとも愛したといわれる一品。閉ざされた空間で人間のエゴと情欲がむきだしにされる『雁の寺』は、坊主の「生臭さ」と若尾の妖艶な「匂い」が入り混じる業の世界。どれもお見逃し無く。そして「最高傑作」ではないと述べた『幕末太陽傳』は高崎映画祭での上映。もともとこの傑作に「最高」などという陳腐な形容詞は要らないのだ。『貸間あり』と並び立つ、川島喜劇の奥深さをご覧いただきたい。

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