『ぐるりのこと。』 その1
前作『ハッシュ!』から6年。26日(土)、期待の橋口亮輔監督の新作『ぐるりのこと。』が満を持しての登場となる。
"ぐるりのこと"とは、身辺のこと、身のまわりの環境のことだという。この物語は、靴修理店で働く、能天気で楽天家の夫・カナオ(リリー・フランキー)と、出版社勤務のちょっと生真面目で几帳面な妻・翔子(木村多江)の身辺で起こる様々と、ふたりの心の内側のゆらめきから、崩壊、再生へと辿る道のりを綴った、この夫婦の10年史である。
"めんどうくさいけど、いとおしい。いろいろあるけど、一緒にいたい"。これがこの映画のキャッチコピーである。そういえば、2日前のブログでも僕は"休漁"のテーマで、"面倒"について書いたのだった。なるほど、人生を語る上で、"人生はとは面倒なもの"ということを、まずは認めてしまう必要があるのかもしれない。僕らはその"面倒"の上に粛々と、日常という他愛もない積み木を積み上げているようなものだから。
幸福の象徴たるはずの出産が死産となってしまったことによって、翔子の積み木は徐々に崩れ始める。結果、彼女は精神を病んでしまう。"面倒"は我が子の"死"につられて、この夫婦のもとにやってきた。そして数年が過ぎ、翔子に突如訪れた"面倒"は、日常の一部にすりかわり、癒えることなく翔子の内面に留まっている。彼女は仕事を辞めていた。カナオも靴修理屋を辞め、裁判所で被告人の横顔を描く法定画家として、90年代の犯罪史を生で見つめる毎日を送っている。それは、殺人の罪で法廷に立つ犯罪者たちと、我が子に命を与えられなかったことを心の傷として抱える翔子を、交互に見つめる毎日だ。
"どんな困難に直面しても一緒に生きてゆく"というこの映画の紹介文に、特に"しても"の"も"の字に、いささかの違和感を覚える僕がいる。使い方が間違っているということじゃない。だって、個々の困難を解消するために夫婦というユニットがあるんでしょ、ということを言ってみたいだけかもしれない。たとえば、そんな困難を"面倒"と呼ぶのなら、夫婦生活とはそれをバラ色に塗ってみたり、土に植えて花を咲かそうとしてみたり、つまりは極めて具体的ではない理解不能な"面倒"と付き合っていく術を模索する旅ではないか。よりコンパクトに、より手軽になんてものばかりが評価されがちなこの時代に、それでも僕らがコンパクトにも手軽にも変容しないそんな"面倒"を、却ってひたすらに愛でようとする本能的な心の核の部分に、この映画は迫っている。幸せな結婚生活を送っている人、結婚生活に疲れている人、結婚生活を面倒だと思っている人、結婚を否定している人、結婚にあこがれている人、かつて結婚していた人、これから結婚する人、そんなすべての人たちに、シネマテークたかさきはこの『ぐるりのこと。』を贈りたいと思っている。
観ました。「ぐるりのこと」。
「自分たちにどこか似ている」。そんな印象でした。
自分自身、カナオに似ている部分があるような、翔子に似ている部分があるような、どちら、とは言えないのですが。
そっけなくしている自分を見て、「あぁ、相手にはああとらえられて、実は苦しめているのかも」とか、苦しんでいる自分に相手からかけられた、一見そっけない言葉は、きっと彼女なりにやさしく風を送るための一言なのかもな、とか。
辿り着くためではなく、ぐるりと自分たちを取り巻くさまざまな日常を愛せたなら、と、見終わったあとに優しくなれる、そんな映画でした。
見終えて、映画館を出て、夕立。
駐車場まで濡れて帰るのも悪くないかな。
そんなふうに、思えました。
上映していただき、ありがとうございました。
投稿: *** | 2008年7月28日 (月) 15:52