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ゼロの詩(うた)

Kagawa  つい先ほど、覚和歌子さんの物語詩集『ゼロになるからだ』を読了。映画『ヤーチャイカ』の原作。その世界観に圧倒され、その素晴らしさに言葉を失う。
 映画を撮られた方だもの、「覚和歌子監督」とお呼びしなくてはならないのが通例。でも僕は、実はこの「カントク」というカクカクした響きがあまり好きではない。覚さんの「カク」という音に、さらにまたカクカクを上塗りすることもないだろうし、本と昨日の舞台挨拶でのあまりにもやわらかな印象から、その通例は捨てたいと思う。その方にふさわしい呼び方があるってもんだ。さて・・・、

 呼吸する映画、それも寝息のリズムで。

 僕の、『ヤーチャイカ』を観ての印象だ。大変多くの写真をつないで構成されているこの作品は、その一枚一枚の"つなぎ目"のところで、映画が確かに呼吸をしている。それも寝息のリズムで。正午と新菜、主人公2人の名に込められた"ゼロになること"と"新たな始まり"は、そのままこの物語の核となっている。ところがだ、僕ら現代人の生活は、いくら眠っても"ゼロ"になることを許されていない上、インダス文明が獲得して以来の"ゼロの概念"は肉体と精神のバランスの維持向上に、あまりにも応用されていないままだ。僕らは前日の鬱蒼とした思いを引きずるだけ引きずって眠り、また「前日の続き」としての朝を迎える。そして、"ゼロになる"ことの意味を"自殺"という行為だと捉え、命を落とす日本人が毎年3万人もいる。かつて高校教師であった正午も、校内暴力事件の果てに生徒をひとり死なせてしまい、落胆の末、自らの命を絶つべく物語の舞台となる村にやってきたのだった。
 覚さんと共同監督の谷川俊太郎さんには、同じ「からだ」という題名の詩がそれぞれの作品として存在する。全文をここに書くことができないのが歯がゆいが、『ゼロになるからだ』に収められている覚さんのそれには、人の胴体手足にはそれぞれに生かされている意味があると詠われている。キスするためのくちびる、キスされるための頬、そして朝焼けを見るため瞳だと。また谷川さんのそれは、たったひとつの分子にもいのちはひそんでおり、それは死の沈黙よりも深く、くりかえす死のはての今日によみがえりやまぬもの、と詠われている。僕らを取り巻く大気と空と宇宙とが一連のものであるとすれば、呼吸とはからだに宇宙を摂取することだろう。僕らは寝ている間も、呼吸することを忘れはしない。なんと偉大なことだろうか。
 『ヤーチャイカ』、"わたしはかもめ"。 女性初の宇宙飛行士テレシコワが、宇宙から地球に送った最初のことば。いったい僕らが何のために、そしてどういう経緯で、悠久の時の流れの中、この果てしない宇宙の片隅で、2本の足で立ち、呼吸をしているのか?テレシコワが空の彼方から見たものとは?2人の映像詩人の試みによって、僕もまた宇宙を飛ぶための翼を得た気分だ。

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コメント

□ 『 ゼロになるからだ 』は 難解な言葉であるが、当 通信で 意味が解った。 ネットへの この『 』の意味の質問が多くあるが 回答はほとんど トンチンカン
だ。 ありがとう。

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